織田 信長

尾張国古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれ[6]、幼少時に那古屋城主となっている。 天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信行(信勝)と家督争いが発生する。これに勝利すると、その後は敵対勢力を次々と下していき、尾張国を統一した。 永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった今川義元を桶狭間の戦いで破り、新興勢力として台頭した。永禄10年(1567年)には美濃国の斎藤氏を滅ぼし美濃を併合し、翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、将軍職に就任した義昭を擁立し、義昭の権威のもと諸大名との外交・紛争を調停する天下の主催者としての役割を代行した。将軍義昭とは次第に関係が悪化し義昭の迎合した反信長勢力との抗争に至るが包囲網を撃破し、元亀4年(1573年)には将軍義昭を追放するが天下の主催者としての役割を引き継いでいる。以後も天下人として統一事業(天下布武)を推し進め、領国内においては楽市楽座や検地など政策を用いた(織田政権)。 信長の死後、家臣の羽柴秀吉が織田政権を乗っ取り豊臣政権を樹立し、天下統一を達成した。さらに豊臣政権は徳川家康によって解体され、江戸幕府が開かれた。信長は戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人であり、日本史における近世移行期の創始者的存在と位置づけられている。

柴田 勝家

大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり)。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。 若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが信長継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。

前田 利家

尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登23万石を拝領し大名となる。 信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀、越中を与えられ加賀百万石の礎を築く。慶長3年(1598年)には秀吉より豊臣政権五大老のひとり、豊臣秀頼の傳役(後見人)を任じられ、秀吉の死後、対立が顕在化する武断派、文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病没した。

明智 光秀

清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿孝輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)説など複数ある[5]。 場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もあるが、こちらは遠山氏の築城した城でもあるので伝承に過ぎない。