尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登23万石を拝領し大名となる。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀、越中を与えられ加賀百万石の礎を築く。慶長3年(1598年)には秀吉より豊臣政権五大老のひとり、豊臣秀頼の傳役(後見人)を任じられ、秀吉の死後、対立が顕在化する武断派、文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病没した。