武田 信玄

武田 晴信/武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信と五次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。

山本 勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼斎を称しているが、文書上からは確認されていない。近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられ武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっている。

山県 昌景

飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている(詳細は後述)。旧名は飯富源四郎。『甲陽軍鑑』に拠ればはじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたという。天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われた。永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。